信仰がなくては悪意に勝つことはできない

 

自分に悪意の矛先が向けられたとき、僕はいつも思う言葉がある。「自分に刃を向ける人を抱きしめられる大人であれ」

 

小説TRIPPER最新号に掲載されている「できることならスティードで」の一部。

否が応でも半年前のあれこれが思い出してしまう。

興味本位のふりして見え隠れしている悪意。面白がって群がってくる悪意。「ファンだから」「好きだから」という言葉を盾にした悪意。いろんな悪意もとい刃が好きな人に向けられるのを見た。

辛すぎて耐えられなくて極力見ないようにしてたけど、それでも見えてしまった。意識的に避けた他人の私の目にも入ってきてしまう悪意は、本人のもとにはどれくらい届いてしまったんだろう。

どの種類の悪意もしんどかったけど、ファンの人たちおよび元々ファンだったのであろう人たちから発信されるものがいちばんキツかった。

「好きだから」「好きだったから」って頭につければなんでも言っていいと思ってるんだろうか。殴っても許されると思ってるんだろうか。裏切るってなんなんだろう。許せないってなんなんだろう。

 

「この道を進むことをお許しください」

この言葉がずっとずっと頭から離れない。許すってなんなんなんだろう。誰に許しをこうたのかな。誰かの許しを得る必要があるのかな。そんな言葉聞きたくなかった。

 

刃を向ける人なんか抱きしめなくて良い、抱きしめないでと願ってしまう。愛を向ける人もたくさんいるから、その人だけを見て、とも思ってしまう。

けど、強くい続けようと自分を律しているしげちゃんだから、やっぱり私は好きなんだろうなとも思う。

やるせない気持ちに何回なったかわからないけど、結局どうしようもなく好きだからに戻ってきちゃうなあ。