不寛容にならないための読書

先日作家の羽田圭介さんの講演会に行って、その話がおもしろかったのでレポ(?)的なものと自分の読書観的なものを残します。
 
作家さんの講演会にはじめて行ったけど、羽田作品読んだことある人1/3、普段読書をする人半数弱(羽田さんが挙手で答えさせていた)。市主催の無料文化講演会だからか、比較的ご年配の方が多かった印象。
 
以下、ニュアンスで箇条書きでつらつらと。
 
 
・態度とは、「自分がどういう人間であったか」の記憶、認識の連続。他者との関わり合いの中でわかる
・ケチくさいので、中2のときこんなに本を読んでいるなら書く側にもまわりたいと思った
・勉強すればするほど、先人たちの偉大さを知り謙虚になる。考えを言葉にまとめられなくなる
 
 
・純文学とは、エンターテインメント小説と比べ、起承転結や勧善懲悪にとらわれない、より自由なもの
・売れていなかったときは、まわりは自分を肯定してくれる人ばかりだったが、世界が広がり本を読まないことが当たり前の世界を知った
・忙しいと本を読まなくても生活は回る。
 それが事実としてあるなかで、媚びずに、自分の書きたいものを曲げずに、いかにより多くの人に届けるか
・日本は特に、表に立つ若い女性が笑顔がないだけで、少しふてぶてしい態度をとっただけで生意気だと糾弾する傾向にある
 
 
・物語を作ることは登場人物をコントロールし、神に近い。
 一方、他人が作った世界のなかで演じることで作者のくせや世界観を感じる。
 演じたあとに書くことで、登場人物が作者のくせを感じているような感覚になった。新しい客観性を得た
・脚本家、演出家、他の役者からそれぞればらばらの指導を受ける。
 作品は誰がつくるものなのか、小説は自分がつくったものといえるのか
 
学生のころから声楽を習っていて、今年ミュージカル(!)に出演された羽田さん。
出演者という立場になったことで、新しい客観性を得たという話に、しげ担的にメモ
 
 
・メディアを通してさまざまな人生モデルが提示されるが、その中にほんとうに自分の人生のベストな選択があるのか懐疑的
・20代半ばからは"横の客観性"が必要。一芸を極めると、他者性がなくどんどん内輪的になる。近視眼的なものの見方になる
・読書とは客観性の担保。自分の人生だけの経験では限界がある。
 水商売をしている女子大生は「私広い世界を知っているから」と言うが、水商売で知ることができる世界は狭い
・アドバイスなど端的な言葉では理解できず、自分が経験して失敗しないとわからないことは多くある。
 その分、読書は多くの言葉を尽くしているので、ゆっくりと追体験できる
・読書で他者とわかりあい、偏った自分に気づくことができる
 
 
私は本が好きです。本を選ぶのも、本を買うのも、買った本を本棚に並べて眺めるのも、読みながら途中で置くのも、我慢しきれなくて最後のページを読むか迷うのも、読みおわっていまちいちだったなと思うのも、この作者の他の本も読もうと思えるのも全部全部好き!!!
なんでこんなに本が好きか、って他人が考えたことをじっくり聞けるから、なのかもしれないと最近思う。
私の好きな作家の方がこんなことをツイートされてた。
 
 
他人の思いの丈の絶叫を聞けることそうそうないよね!?
もちろん読みおわっても自分の中を通り抜けるだけの本もたくさんあるけど、なんとなくもやもや考えていたことが言語化されていたり、思いもよらなかったことに気づいたり、そうやって救われることもたくさんある。
自分の人生で出会える人の数には限りがあって、その中で思いの丈の絶叫できる人の数はもっと限られている。けど、本はどこまでも世界を広げてくれると思う。
 
無知の知とはよく言ったもので、わかっていない・知らないことがたくさんあることを自覚しつつ、もっとたくさんのことを知りたいと思う。
読書について考えた結果、自分のこともよくわからないのに、誰かとわかりあうなんて到底無理だけど、わかりたいとは思い続けたいということを思う2017年秋です。